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対敵意識2012/10/03 20:40

 先月、ローカルな居合道大会があったので参加させて頂きました。
 結果はいつもの通りちょっと残念な物だったのですが…。

 試合後に先生からの指導点

  ・各業は、丁寧に抜けているもで、その点は良い。
  ・身体で攻めが表現できていない。
   ただ、突っ立って切り下ろしている様に見える。
  ・切り下ろしに勢いが無い。

 思い当たる節があります。

 今回の試合での自分なりのテーマとして、業の中で切れ目を作らない、と言う課題を考えていました。

 例えば一本目で、抜き付けてから振りかぶりに移るまで、振りかぶってから切り下ろすまで、切り下ろしてから血振りに入るまで等、それぞれに間を置くことなく意識も途切れない様に気を付けて演武したつもりでした。

 しかし、その事にこだわるあまり頭の中は常に次の動作の事ばかりを考え、目の前の仮想敵の事を完全に無視して振舞っていた様です。

 又、頭で考えて身体を動かしていた為肩や腕に余計な緊張が生まれ、それが切りの勢いを殺してしまったと思われます。

 自分では、それなりに上手く出来たつもりでいましたので、先生に御指摘頂くまで大事な事が抜けているのに気がついていませんでした。

 居合は一人で演武しているのではありません。剣道の試合と同じ様に目の前に居る相手と戦っているのです。目には見えない「仮想敵」と言う相手と…。

 どんなに上手に振舞っても、相手から一本入れられたのでは負けです。

 居合の試合は二人が並んで演武を行いますが、「仮想敵に勝った方に旗が揚がるのだ」と、今更ながらに理解できた試合でした。

「全日本剣道連盟居合(解説)」を読む 92012/10/12 21:47

数字で角度が指定されている箇所

 全日本剣道連盟居合(通称 制定居合)において各動作に数字で角度が示されている箇所があります。

 「全日本剣道連盟居合(解説)」より、該当部分を抜粋します。

作法
【携刀姿勢】 「鐺」が約四十五度後ろ下がりになるように
【神座への礼】 上体を前に約三十度傾けて

技術
【一本目】(抜きつけた時)上体は四十五度左へ傾き
     (血振り)切っ先は約四十五度前下がり

 以上です。

 これだけの箇所でしか指定されている事をどう感じたでしょうか?
 自分は思った以上に少ない、と感じました。
 (数字ではなく「直角」「水平」という表現がされている箇所もありますが、それは置いておいて…)

 普段稽古をしている時って、もっと色々数字を示して指導されている、若しくはしている気がしませんか?

 解説書で数字で指定されている箇所は礼法内と[動作]内でも本文ではなく、注意(1)の中でのみです。顔面に抜きつけた時は○度になるとか、敵は自分からみて○度の位置にいる、とか書かれてはいません。

 角度が決まっていてそれに合わせて切るのではなく、切る位置と理合が存在して初めて切る角度が決定されるのです。

 居合の仮想敵は、自分と同じ体型・体格と想定されていますから、結果として誰が演武してもほぼ同じ角度で収まってしまうのではないかと思いますが、だからと言って数字ありきの稽古はいかがな物かと思います。

 数字に合わせて動こうとすると、見た目は綺麗だがただそれだけの居合になってしまうのではないでしょうか。
 仮想敵をしっかり目に捉えて、指定された箇所を正確に切る。その意識がないとつい数字に流されてしまうのではないかと思います。

 でも、所作事できっちり指定されている所は、きっちり出来るように稽古しなければいけませんね。

 ちなみに、角度を意識するときは時計をイメージすると分かりやすいと思います。

 文字盤の目盛5分ぶんが15度ですから、神座への礼のときは自分が分針になったつもりで正時の位置から2時の位置まで頭を下げる感じで行って見てはいかがでしょうか。

コツとヒント2012/10/18 22:50

 居合の稽古において、先生からコツを教えてもらえればそれですべてが上手くいくと思っている人がいました。

 「○○の時は、△△を××する感じでやると上手くゆく」
 「○○は、身体の△△を使って××する」

 本来、身体の動きとは自分にしか判らず、それを言葉や文字で他人に伝えるのは不可能な事だと思います。コツとは、その不可能な事を行う為の手助けとして、あるパターンの外から見える状態を言葉にしたものにすぎないと思います。

 コツとは、それを知ったから教えてくれた人と同じ様に動ける訳ではなく、そこから教えてくれた人の身体の中の動きを推察し、自分の中に取り入れていく為の取っ掛かり(ヒント)にすぎないと思います。

 コツは教えてもらったら終わりなのではなく、手に入れた時がスタートなのです。

武道と人間形成2012/10/31 22:28

 少し前に剣道・柔道又は居合道等の武道に関わった人間の不祥事・事件が続き、武道における人間形成と言う物に不信の声が上がっていました。

 武道をすれば人間形成が出来る物なのでしょうか。
 又、武道とスポーツではそれが異なるのでしょうか。

 私個人の考えですが、
  武道と人間形成は何の関わりも無く、
  そういった意味では武道とスポーツに違いは無い、
と思っています。

 しかしこれは「武道では人間形成が出来ない」と言っているのではありません。

 「人としてどう生きるか」と言うテーマを自らに持つ者にとって武道は、十分その役に立つ物であると思っています。
 そして、そのテーマを持っている限り、武道であろうがスポーツであろうが、又は勉強でも、芸術でも何でも同じ効果を得られるであろうと思います。

 要は、武道が人間形成を行うのではなく、人間形成を望む者にとって道は無限にあり武道もその一つになり得ると考えるのです。

 求める者には示されるが、求めない者にはそんな物がある事さえ気付かない世界とでも言えるでしょうか。
 (もちろんこれは、人間形成を求めるから偉いとか、求めないから間違っている、ということではありません)

 「道」とは「人としてどう生きるか」を求める為に生まれてきたものだと思うのですが、最近、他人との優劣にばかり目が行く風潮がある様な気がして、ちょっと気になるのです。